さてさて、真夏の始まり7月です。新型コロナウィルスも根絶はしないもののかなり抑えられて徐々に日常を取り戻しつつあるように感じます。まだまだ気を付けなくてはなりませんが、新型コロナを理由に過ぎた抑制を行うのもあまり良くはないのかなと思います。絶対に油断はしてはいけませんが平時の生活を意識して過ごす段階にきているのかなと思います。
ここで新型コロナの事ばかりを発信してもつまらないのでそろそろ話題を変えたいと思います。
今年の年明け早々(コロナ蔓延前)に遠方より来られた知人に堺市を案内するために堺市博物館(仁徳天皇陵のところ)に行きました。堺市に在住しながら古墳にあまり身近さを感じておりませんでしたが市街や他府県の方からすると世界遺産に認定された世界で一番大きなお墓と言うことで興味がそそられるようです。現在の古墳の姿は近くからは「森」にしか見えませんが、建造時は葺き石作りで遠目には太陽の光が反射して白く輝いており、人工物としての異様さを放っていたようです。当時、日本の中心として栄えていた堺の力の象徴として有力者たちが競って古墳を作りました。今より海が近く、船から見たこれらの古墳群は堺の強さを誇示していました。博物館でこのような説明をVRで視聴し、古墳に対する興味が少しだけ芽生えました。よく考えると堺は日本のなかでも工業技術力の高い地域です。種子島から伝わった火縄銃を生産していたのは堺です。当時の銃の生産は当時の最新技術です。今でいうなら飛行機の生産をしているようなイメージになるのではないでしょうか。銃砲身(筒)を作る技術は繊細でち密でないと暴発して使いものになりません。日本は火縄銃を生産し技術躍進させてきましたが、途中西洋型の銃(ボルトアクション)にとって代わられ火縄型の銃にこだわった堺は銃の生産が衰退していきます。堺がこの時、柔軟に西洋型の銃の生産に切り替えることが出来ていたら、今の堺市の産業の形が変わっていたかもしれません。真似をし、それに磨きをかける堺生産の西洋型の銃が世に出回っていたらどうだったでしょうか。堺だけでなく日本の産業にも影響したかもと考えると面白いです。タラレバですが。ただ、高い銃砲身の生産技術が、後の堺市を代表する産業、シマノの自転車や釣り竿に引き継がれていくわけです。これらは軽量で高剛性と柔軟さの相反する性能を併せ持つ「筒」を生産する高い技術力を要します。歴史的に火縄銃を生産してきた経験から育まれてきたものです。
知人を観光案内するために一人では絶対に行くことのない堺市博物館に行き、そこで古墳について軽く学び、堺市を少し見つめなおし、火縄銃とシマノの関係にたどり着きました。確か、学校の歴史の教科書には「堺」の事がいくつか載っていたように思います。堺は歴史深く、昔の日本にとって重要な位置づけであったと言うことをもっと認識しなければならないのかなと考えました。