巷ではPCR、濃厚接触、陽性、陰性等の言葉が飛び交い、少しずつ聞きなれてきた感も出始めているのではないでしょうか。知り合いの施設でクラスターが発生しました。管理者のことが心配で電話で様子伺いをしていたのですが、症状(ほぼ無症状。症状があっても軽い風邪)より状況(施設と関係のないところからのクレームなど)が大変でその対応に追われているとの事でした。問題の趣旨が変わって来ています。感染による危険より風評問題がクローズアップされてきました。不寛容な時代ゆえの症状で、これの方が病的であるのではないかとさえ感じてしまいます。病んでいるのは現代の人間社会!?
気づけば秋も終わりに近づき秋の夜長にふと本でも読もうかと思い、手にして読み始めると本嫌いアレルギーに悩まされて思ったように読み切れなくてイラつく今日この頃。私はどうしてこのように本読みが苦手なのか。というか国語が苦手なのかその言い訳を考えていたところ、以下の様な屁理屈にたどり着きました。
小学校に就学すると国語、算数、理科、社会などの学習指導が始まりますが、特に国語科を教える時に気を付けないといけないことは、国語は他の科目のうちの単なる1つではなく、すべての科目の基礎となることを認識する必要があると考えます。なぜなら、算数、理科、社会などの教科は全て教科書も含めて出題や回答、指導も全て日本語を使うからです。要するに国語力がないと指導を受けても身につきませんし、出題に対する理解も不十分でまともな回答が出来なくなります。私は勉強が苦手な子どもの多くが国語力の乏しいことに原因があると考えます。読解力の乏しい子どもはどの教科を受けても楽しくありません。読解できないことの辛さは我々大人が思っているより子どもにとっては耐えがたいほどのストレスになることを指導者は理解しなければなりません。一瞬でも授業を受けることを子どもが苦痛だと感じてしまうと、それをカバーすることは容易ではないです。国語科の指導をする際は全ての教科に関わるとても重要な科目であるということをしっかりと認識する必要があり、強いては子どもの将来に関わる程のことだということも念頭に置く必要もあります。
小学校の国語では授業中も宿題でも「本読み」をします。指導者は大きな声でゆっくりと心を込めて本読みをするように指導していたように記憶します。この指導の仕方も重要ですが、これができたからと言って文章の意味を理解しているとは言えません。芸として上手く読めるのと理解して読めるのとは別だと思います。本読みを行う際は声に出さない方が良いです。クラス全体で読む行為は単なる儀式にしか過ぎないと考えます。本読みをしながら理解するペースは人それぞれです。自分の周りで自分以外の人の声が耳に入ってしまっては本読みに集中できません。本読みの指導の仕方としては、空間的な環境に配慮し、子ども自身も体調の良い時にする。そして読み進めていく中でストーリーがわからなくなったら戻って読み直す。そしてわからなくなることがいけないことであるという認識を植え付けないことも重要です。時間がかかってもストーリーが解ることの楽しさや充実感を味わうことが大切だと思います。小学生の初めの内の国語科の授業はゆっくりじっくりと進める事が大事です。
夏休みの宿題に読書感想文があります。読み解いた本の感想を原稿用紙に書いていくわけですが、私は感想を書く必要はないと考えます。感想は聞くもの、尋ねるもの、また自ら話すことだと思います。書くことにより言葉を選び限定的になるのも良くないと思います。感想を書面に落とすことは低学年には高度過ぎると思いますし、子どもの感想は指導者が聞いて、共感し、表現しようとしている表情や気持ちを察知し導き出すことにあるのではないかと思います。簡単でもよいのでしっかりと読み解いたストーリーに対する感想は書かすよりも聞いてやる方が子どもたちにとっては楽しいはずです。大人では発想出来ない感想が出てくると思います。また、コミュニケーション能力の向上にもつながるのではないでしょうか。
という風に、自分の苦手を小学生当時の学習のせいにしているわけで、人間的にはあかんのです。が、福祉にも原理原則的な考え方がありますが、違った角度から取り組むと言った柔軟な発想と行動力も必要ではないかと法人設立当時から考えています。不寛容で人間味の出し辛くなった社会は形式にとらわれがちになります。「味」=「人間性」でもありますので機械のようにならないように気を付けたいと思います。